古式捕鯨の里 通(かよい)へようこそ!

鯨捕獲絵図(八坂神社所蔵) 鯨捕獲絵図(古式捕鯨)

山口県長門市のシティカラーはクリスタルブルー。そのきらめくような青い日本海に浮かぶ青海島は周囲約40キロメートル。 青海島は金子みすゞさんのふるさと長門市仙崎の北にあり、青海大橋により本土と連絡されています。
青海島は北長門海岸国定公園の代表的な景勝地で、国の名勝及び天然記念物に指定されています。青海島の北側は断崖絶壁や洞門など数多くの奇岩怪石などが連なります。 このような風景は「海上アルプス」と呼ばれており「日本の渚100選」にも選ばれています。

青海島の東部に位置する周囲15キロメートルが通浦(かよいうら)です。通浦には、三つの国指定史跡、重要文化財等があります。 鯨の胎児を埋葬した国指定史跡の「青海島鯨墓」、国指定重要文化財の「早川家住宅」、国指定重要有形民俗文化財の「140点の捕鯨用具」です。 いずれも、鯨に関するものです。このように通浦は江戸時代から明治の終わりまで古式捕鯨で栄えた町でした。

通浦の鯨組は延宝元年(1673)長州藩に取り立てられ、当時、陸の踏鞴産業、海の鯨産業とも云われ、明治41年(1908)まで235年間にわたって、 網捕り捕鯨を続けました。
当時、四大古式捕鯨基地として「紀州捕鯨」の太地、「土佐捕鯨」の室戸、「西海捕鯨」の呼子、生月そして「長州・北浦捕鯨」の通浦、瀬戸崎(現在の仙崎)、 川尻があり、四大捕鯨基地では、長州・北浦捕鯨の規模が一番小さかったのです。
当時、通浦の鯨組の鯨に対する想いは格別でした。鯨の胎児を埋葬した「鯨墓」の建立、「鯨の位牌」、 鯨に人間と同じように戒名まで付けた「鯨鯢過去帖」にその優しい思いがあらわれています。また鯨漁が終わる春には「鯨回向」も実施されました。 当時の仏教界で人間以外絶対に回向は出来なかった時代でした。ここ通浦には世界でも類をみない鯨食文化があります。

弘化3年(1846)通浦では鯨が一番捕れた年です。弘化3年11月29日には、鯨5頭、半年で24頭捕獲しました。 当時、鯨一頭は、銀10貫、江戸風に170両、今の日本円で3400万円の価値でした。しかし時代の流れは皮肉なものです。この年にアメリカは鯨銃を発明し、 西洋各国は争って日本海近海に鯨油を求めて徹底的に鯨を乱獲しました。「弘化〜嘉永年間(1844〜1854)」 ペリーが日本に開港を求めたのは、鯨船のためでした。薪炭補給、食糧補給、海難救助等の理由でした。

金子みすゞさんの詩「鯨捕り」の中に「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」という一節があります。 通浦に鯨が一頭も寄らなくなり、鯨組の網頭13代早川源治右エ門は向岸寺の歴代住職の墓地に鯨と魚の霊を弔う「鯨鯢魚鱗群霊地蔵尊」を文久3年(1863)に建立しました。 全国で鯨の地蔵尊は二ヶ所だけです。
通浦を歩けば、300年以上前の古式捕鯨の里として、人間が失った大切なものが見えてきます。金子みすゞさんの詩の原点を見つけることが出来ると思います。