鯨鯢魚鱗群霊地蔵尊

鯨鯢魚鱗群霊地蔵尊

141年ぶりに目を覚ましたお地蔵様

仙崎出身の金子みすゞさんの詩に「鯨捕り」がありますが、みすゞさんの生まれたときは「古式捕鯨」は終わっていたのでした。 しかし「鯨捕り」の詩は非常にリアルに生々しく書かれています。詩の一節に「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」とあります。
通浦に鯨が一頭も来なくて、祈るような気持ちで建立した「鯨鯢魚鱗群霊地蔵尊」全国で二ヶ所しかないのです。

文久三年(1863)早川家13代早川源治右エ門が鯨や魚類の霊を弔うために、向岸寺 歴代住職の墓地に石地蔵を建立しました。像容は合掌印を結ぶ坐像で、像高は74センチ。 高さ80センチの台座正面には「鯨鯢魚鱗群霊」、右側面には「願主 早川源治右エ門」、 左側面には「文久三癸亥六月廿二」と刻まれています。
何故だろう?その地蔵の存在を誰にも知られずに、141年間もひっそりと座していたのは。 歴代住職の墓地にあっただけの理由でしょうか。施主・早川源治右エ門の子孫にもこの ことが伝わっていませんでした。向岸寺の歴代住職さえも、その存在に気付かずに今日に及んだのでした。

そして平成15年のの法面工事で地蔵を移動したとき、台座を180度、間違えて設置したのです。 幸いに長門市郷土文化研究会の理事で石仏に詳しい大石正信氏(日本石仏協会会員)が、 平成3年11月の石仏調査当時の写真を保存していたので、間違いが判明したのです。
この地蔵の存在を後世に正しく伝えるためにも、向岸寺住職及び檀家の皆さんが早速台座の向きを元通りにしました。

時代は弘化3年(1846)通浦で一番鯨が捕れた年でした。しかし歴史は非情です。この年にアメリカ式鯨銃が発明されました。 アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの捕鯨船が日本列島の近海に進出して乱獲、わが国の沿岸捕鯨を圧迫しました。
のちの1853年には、アメリカ東インド洋艦隊司令官ペリーが浦賀に来航し、アメリカ捕鯨船の遭難救助、食料や薪炭の補給などを幕府に求めました。
鎖国時代の日本では通地区までそのような状況などは、まったく伝わらず、早川家13代の早川源治右エ門は、「鯨鯢魚鱗群霊」と大きな文字に、 鯨が来ない理由が自分たちに責任があるのではないかとの深い思いと、胸中では捕鯨ができるよう祈るような気持ちでこのお地蔵さんを建立されたのではないでしょうか。

鯨によってもたらされた繁栄時代に建立された「鯨墓」(元禄五年・1692)と、衰退の歴史の中での「鯨鯢魚鱗群霊地蔵」に通浦全体の祈りが現代にも伝わっているように思えます。
豊漁の時代には、長男はもちろん次男、三男もこの通浦で漁業の仕事に従事していましたが、今では、長男も、後継者になれない厳しい現実があります。
歴代住職の墓地の一角でひっそりと祈り続けるこのお地蔵さんにも、僅かばかりの光をあてていきたいものです。